東日本大震災
早期退職に応募してN社へ
なんとなく、海外で働きたいなあという思いが昔からあってIBMの1年間アサインとか応募したかったが部門がなくなったのでそれも無理となりぼんやり仕事をこなしていました。
世界の経済はリーマンショックの前触れがおきてなんか怪しい雰囲気がおしよせてきた頃
急に上司に呼び出され個別の打ち合わせがしたいといわれた。最初周囲になんか上司によびだされたというと次の部長じゃないかといわれちょっと有頂天だったが、主旨は早期退職パッケージが今度施行される年齢的にも該当するのでどうかといわれた。
計算するとマンションローンの返済と次女の学費も賄えてかつ貯金もできるので、応募することにする。とわいっても当面は働かないといけないので海外就労を見据えて活動を開始。しかしその時はリーマンショック後でなかなか厳しい状況だった。面接すらすすめない状況が2か月くらいつづいた。
同僚が口ききで老舗のN社に就職できて働きはじめました。
ここでの最初の仕事が大きな案件の売り込みで張り切って始めたんですが、
うまくいきかけると私の足をさりげなく引っ張る営業さんやらSEがいてあれあれとなり、
これは気を許せない会社だと察知して”長くはいられない”と感じました
仕事自体は目立とうとしなければ、自由にで好きな事ができた環境でいろんな機器を触って検証ができて技術的には楽しく働かせいていただていました。
大地震発生、そして被災地へ
2011年3月11日大地震が発生し、東北地域が津波の被害にそして福島では福島第一原発でのメルトダウンによる大きな被害が発生しました。被害地域が広すぎて行政も手が回らない状態がつづいていました。
勤めていた会社で東北支店(仙台)の社員に救援物資を届けようということになりメンバー募集がはじまったんですが、原発事故の関係で東北自動車は全面通行禁止で原発から半径50Kmから離れろと避難命令がでていた状況で応募がなくて裏でメンバー探しがはじまりました。
救援部隊のリーダが私の事を思い出してくれて、私の携帯に行きませんかと勧誘の電話をいただきはい、と軽く引き受けてその日はそのまま支度(寝袋、軍手、靴の中敷き、薬類)にすることになり翌日出社。
支援物資(ガソリンや携帯の電池など)車に詰め込んで総勢3名で仙台にむけて出発。
福島は危ないという予測をたてて新潟にでて山形経由で仙台に向かうことになりました。
荷物満載ですこしガソリンのにおいがきつい車で大雪の日本海地方をドライブをして、やばい事故りそうとひやひやしながら山形県天童市に到着。ここをベースにして翌々日仙台に支援物資第一弾をとどけました。
第2陣の支援物資が東京をでて先に仙台にとどけるという間抜けな展開になりましたが、ちょっとづつ支援が始まっていきました。
この物資を届けるときにもいろいろなストーリがあって他人のために動く意志を持った人、自分の事しか考えない人、とにかく頭がおかしい人いろいろな人間模様が展開されていきました。悲劇もいっぱい、心がほっこりする話もいっぱいなにもかもいろんな事が起きすぎた時間でした。ただ人助けにいきたいと純粋に支援する人達が大勢いたことには今でも感激を覚えています。
被災地にて
地震発生後1週間が経過した仙台の海沿いの地域でとった写真です。海岸線から2,3Km奥の地域かと思いますが津波で車がながされていました。この時点は車になかに遺体があるかは確認できておらず手つかずの状態でした。
仙台支店に大変知恵があって行動力を備えたリーダいて、非常に効率的に支援物資をふりわけ休日はボランティアでガラクタを片付けにいくという時期を半年くらいつづけたそうです。半面、営業所長は映画にでてきそうな自分勝手な方でした。東京くる支援物資に刺身つけてくれとか、高級ハムが欲しいとか、支援物資をこっそり抜き取って家に持ってかえろうとしたりなどなど最後は笑いにネタになっていました。
他人のために動く人たち
原発のため各IT会社のエンジニアは自宅待機を命じられうごけない状況で、福島にいたエンジニアは福島から避難を命じられていました。福島の病院で新規病棟工事の関連の仕事をしていたエンジニアと協力会社の人は急遽新潟に避難していました。被害が想像以上に甚大病室不足が目にみえていたのでその病院関係者から新規病棟を開けて病人受け入れたいのでなんとかならないかという切羽詰まった依頼があったそうです。
会社の命令は福島県外で待機だったんですが、エンジニアは会社には「道具類を病院に忘れてきたので病院に取りに帰ります」というすごい理由で福島にもどり病院で作業したそうです。自分の判断で動けるのに感服!
次に宮城県での話です、ある市役所の建屋が津波の被害でサーバ類が流されてしまい住民台帳DBが使えず結果安否確認ができない状態になっていました。別の建屋のサーバがつかえそうなか現地調査の依頼がありました、しかし、派遣されてきたたエンジニアや関連する業者さんは現地調査以上の働きをみせたそうです。みんなフル装備で現場にいって建屋の床に泥を除去し電気工事、サーバーの起動やDBの起動まで1日でやり切りお客様に引き渡したそうです。費用は現地調査分だけです。こういう人のために働ける名もない人たちに感動です。
これは大した話ではないですが、
津波の被害地域を車で通っていた際、歩いて移動している若い男性をみかけて送ってきますよ声をかけました。
当時はガソリンが入手できず(半日まって10リットル支給)おそらく車がつかえない人だろうと想像。予想どうりとなりの町にすんでいるおばあさんと連絡がつかないので、
様子を見に行くところで車がつかえないので歩いていくところでしたとの事。
隣の町までついたらここからは歩いていきますというのでおろして見送る。
まだ1時間くらいあるくんだろうけど、
人の世話には極力ならず遠慮するところになんかジーンとしました。
N社の頭のいい人が緊急車両の認定をもらってシールを車につけていたので、高速のSAで給油を受けられるという特典があったので私たちの車はガソリンについて余裕があったという事も追記させてもらいます。
2011年5月福島県郡山市にて
5月になっても原発事故で大量に避難された人があふれていました。
しかしボランティアの大半は福島は通過して宮城・岩手に向かう人が多かったと
記憶しています。やっぱり見えない放射能はこわいですよね。。。
なんか福島でなんかヘルプできないかと思っていたら、
運よく郡山市でIT系のボランティア募集があるのを知り、3泊4日で郡山にいってきました。
郡山市の県の施設には、原発のために3000人ほどの方が避難されていました。
普段は展示会やコンサートに利用されるホール会場がすべてが避難所になっていて
許可された人だけが入室だける独特な雰囲気がありました。
そこに以下のいろんな立場の人が登場してきてただ話だけが流れていったかなあというの
記憶でした。何もできなかったというのが正直な感想です。
- 避難してきた人
- ボランティアに来た外人
- 地元のボランティアスタッフ
- 県庁・市役所の人
- 警察・自衛隊の人
避難所にあった支援物資のストック
ボランティアにはイタイ団体・人がいた
行政はその時期ボランティアは整理できないのでお断り状態でしたが、
私が参加した海外のボランティア団体には許可なぜかがありました。
後で聞くと外人が押しかけてきて行政がただ断りずらかったようで、
それを政府公認と盛っていたのが実情でした。
その団体は実態以上に話を盛ったせいでいろんなところが支援(人材・お金・物資)
が集まりすぎて結局回らず、最終的にはその団体のリーダが自分の首をしめる結果に
なったそうです。
それ以外にも
避難所の内部やボランティア同士の写真ばかりとっている人、
原発避難地域にて無人の家に無断で入り写真をとってSNSにアップしている人
自分がしたい仕事ないといって何もしないで現地にいるだけの人
現地のニーズをまったく顧みず自分の団体・会社のサービス・機器を押し付ける方々
何しに来たのと首をかしげたくなった。